暖炉
  倍賞千恵子の日本の詩をうたうVOL.4

  昭和49年7月10日(1974年)発売 SKD-210 \2,000




 ▲第1面▲  ▲第2面▲
 1.ぺィチカ  1.初恋
  北原白秋作詞,山田耕作作曲   石川啄木作詞,越谷達之助作曲
 2.この道  2.はるかな友に
  北原白秋作詞,山田耕作作曲   磯部俶作詞,作曲
 3.中国地方の子守唄  3.ちんちん千鳥
  岡山県民謡,山田耕作作曲   北原白秋作詞,近衛秀麿作曲
 4.出船  4.バラが咲いた
  勝田香月作詞,杉山長谷夫作曲   浜口庫之助作詞,作曲
 5.若者たち  5.銀色の道
  藤田敏雄作詞,佐藤勝作曲   塚田茂作詞,宮川泰作曲
 6.悲しくてやりきれない  6.もずが枯木で
  サトウハチロー作詞,加藤和彦作曲   サトウハチロー作詞,徳富繁作曲



 このアルバムは日本の詩シリーズの最終第四作、正直言って前三作より選曲に苦しんだ感が否めない。抒情歌からニューミュージック、フォークソングのはしりまで幅広い感じである。強いて言うと「初恋」「はるかな友に」くらいか。第四集には例によって大沼正さんの解説があるので、一部を紹介する。

大沼正(1974年)
 1972年の秋「倍賞千恵子リサイタル・日本の詩をうたう」(東京・渋谷公会堂)を聴いたときの感動を、いまでも忘れることが出来ない。「さくら貝の歌」「出船」「かあさんの歌」「あざみの歌」など、素朴な日本の歌曲は、倍賞千恵子その人のために、作られた歌であるかと思ったほどだった。
 「美しい自然をもっていたころの日本を、もう一度みつめて見たい」と、リサイタルで語った彼女の真摯な表情は、歌の詩と旋律にぴったりであり、まさに映画「男はつらいよ」の寅さんの陰で、控え目に演じるさくらちゃんのように、"適役"であった。(略)
 倍賞千恵子が、改めて「日本の詩」を見直そうとした姿勢は正しい。そして、このことは彼女の"任"でもあったのだ。ハスキー・ボイスのロック歌手が歌う日本の詩ではない。透明で清純なメゾ・ソプラノの倍賞は、現実の日本の音楽界を見渡して、最適任であることは、誰でも認めざるを得ない。倍賞のメゾ・ソプラノの声質は無論のこと、それに加えて、彼女が日本の歌曲を歌うにふさわしい、やさしい心根の持ち主であることが適任に輪を掛けている。
 ここに一枚の写真がある。おそらく荒川土手の付近の道だろう。前をカールした、後ろを無造作に束ねた髪、平凡なブラウスに、当たり前のスカート、ハンドバッグを肩まで振り上げた一人の娘が、さっそう歩いて行く。娘の足下の崖の下に古ぼけた家が見える。家の前に立つエプロン姿のおばさん、娘の母親だ。赤羽線板橋駅近く、二つ並んだガスタンクの横を折れて、細い坂道を下ると滝野川第六小学校がある。彼女の家はそのすぐ隣、関東大震災後建ったという古びた十軒長屋のとっつき六畳と三畳の家だ。
 「下町が大好き」「私の家は長屋」といった見出しで紹介された庶民女優・倍賞千恵子のデビュー時の写真である。昭和36年の20歳、すでに松竹歌劇団の幹部で、初の松竹出演のころだった。
 翌37年7月1日、倍賞は「やっと夢が実現しました」と喜びにあふれて、キング・レコードに入社した。倍賞は、女優の資質が早く開花したが、実は幼いときから歌手志願だったのだ。小学校5年から中学2年まで、児童合唱団に所属し、みっちり基礎訓練を受けている。中学から松竹歌劇団へ進んでも歌はやめず、寸暇を惜しんでレッスンを続け、ダンサーよりも歌手を目ざしていた。このころのプライベート・レッスンを受けたのは服部良一氏、氏の推薦で、NHKラジオ・ミュージカルに出演、天性の豊かな美声がレコード各社ディレクターに認められ、引っぱりダコになった。キング入社の動機は「童謡の歴史があり、童謡からうたい続けた私を生かしていただけると思って――」と言葉少なに語っている。(略)
 このアルバムの歌は、すべてエプロンとサンダルと買物篭の倍賞千恵子自身の歌である。そして、このスタイルが温い真の日本女性の姿とはいえないだろうか。なにか荒川土手の夕暮れが、ただよって来るではないか。
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